■何とかして…

 

文化を越えて福音が伝えられるときには、常に受け手の文化が尊重されなければならない。コミュニケーションの送り手の重要な務めの一つは、受け手が聖霊に導かれて、自文化の諸要素を用いて、自由に愛と信仰を表現できるように助けることだ。

それは、イエス様の受肉の原則に適っている。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」(ピリピ2章7節)

パウロも言う。「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。<中略>すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。」(第1コリント9章20節)

ヨハネは、ギリシャ語で福音書を書くにあたり、イエス様を「ロゴス(ことば)」と表現した。ロゴスという用語は、ギリシャ文学や哲学で広く用いられた用語で、非キリスト教的連想が伴ったが、彼はあえて、読者に馴染み深い用語を採用した。

翻訳語や造語を使うと、ギリシャ語を話す人たちが、「自分たちの救い主」だとは思いにくいのではないかと思い、配慮をしたのかもしれない。けれども、ギリシャ哲学の用語を使うことで、意図しない意味が伝わってしまうというリスクがあった。

そこで、ヨハネは文脈の中で、ロゴスという言葉を再定義しながら使った。「はじめにロゴスがあった。それは神と共にあった。ロゴスは神だった。ロゴスは神の創造の代行者、人の光、命であり、聖霊によって人となられた<人格>なのだ。」と。

韓国では、神を「ハナ(唯一の方)」と訳したが、日本では、汎神論的な「カミ」をそのまま使ったので、人々に誤解を与えたと論じる向きがある。しかし、カミという用語を使わずに「創造主よ」と呼びかけることで、問題が解決するのだろうか。

「神様」と呼びかけるときに、キリスト者になる以前に他の霊的存在者に対して抱いていた感情が呼び起こされ、意識が混淆するという議論も成り立たないことはない。だからと言って、礼拝の雰囲気が伝わりにくい造語を使うしか選択肢はないのか。

受け手が、「私たちの神様だ」と思いやすいように、用語を含めた受け手の文化の諸要素が、受け手によって大胆に採用されるように励まし、その上でコミュニケーション上のノイズ(雑情報)を軽減する工夫をする、という順番で考えた方がよい。

そのような努力を通して、その文化の視座を通してしか発見され得ないキリストの側面が明らかにされていく。聖霊は「創造主」なので、「何とかして、幾人かでも救」いたいと願う行為の中で、もっともクリエイティブな御業を表わしてくださる。

 

第2コリント10章1節
さて、私パウロは、キリストの柔和と寛容をもって、あなたがたにお勧めします。